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それは誰の”沈黙”なのか ~沈黙 サイレンス



原作を読んだのは中学1年生の時。
あらすじは覚えていましたが、詳細、きれいさっぱり忘れてました。

まず、スコセッシ監督の偉大さに感服。
ハリウッドのナンチャッテ日本をさんざん見てきた身としては、ここまできっちりかっちり、当時の日本を描いたというのがすごい。
日本人が見ても、違和感がないというのが、とにかくすごい。
さらに、この映画を作るには、日本人にしかない独特の宗教観を理解しないと無理で、それもきっちり理解されての製作と思われ。
そこ、たぶん、西洋人には一番難しい部分と思っていましたが、完全クリアでした。

師であるフェレイラが棄教したという知らせに、ロドリゴとガルペは、その真実を確かめるのと共に、多くの司祭や信者が殺されている日本への布教に、最後の司祭としてやってきます。
たどりついた切支丹の村で、切支丹弾圧がいかに過酷なものかをまざまざと見ることになったふたりは、その後、別々に潜伏し布教しながらフェレイラを探そうとしますが、ロドリゴは案内人のキチジローの度重なる裏切りにより、役人に拿捕されます。

すごく複雑なものを描いています。

切支丹であることを告白しないのなら、村から4人、人質をとるといわれた時。
村人ではないキチジローを、「お前は村の人間ではないから、人質にいけ、命を差し出せ」と村人たちが言い立てます。
そして、目の前で磔にされて死んでいく仲間を、黙ってみている。
関係ない人間を差し出し、仲間が殺されていくのをただ黙ってみているのは、人として許されることなのか?という部分。

ロドリゴとガルペも、同じものをつきつけられます。
自分たちがキリストの絵を踏まなければ、目の前で切支丹たちが次々と殺されていく。
踏むのか、共に死ぬのか、それとも、彼らの犠牲の前でもなお、信念と信仰を貫くのか。

逆に、踏み絵を前にした切支丹たちも描かれます。
司祭であるロドリゴがいる前では、どうしても絵を踏むことができない切支丹たち。
ロドリゴをうかがうように見る彼らの姿に、ロドリゴがそこにいなければ踏んでいたかも知れない可能性を見せてくるのは、見事でした。
殉教を覚悟しているかのように見えて、「パライソにいけば、苦労がなくなる」というふうにしか信仰を捉えていないかのように見えるモニカ。
踏み絵をしなかった身内がどうなるかを目のあたりにして、泣き叫ぶ彼女に、どれほどの理解があったのかはわかりません。
では、彼らにとって、信仰とはいったいなんだったのだろうか?という疑問。

日本人役人たちは、優しい声で笑顔で言います。
「踏み絵も形だけだ。自分たちは、お前たちを拷問にかけて虐殺するなんて、本当はしたいとは思っていない」
井上筑後守は、「キリスト教は日本にとって、危険な存在である」と言い、通詞(通訳)は、「パードレたちは、日本の文化や人々を卑しいものと見下していた」とロドリゴに話します。
自分が見下す人々に、神の愛と信仰を説くことの矛盾がそこにあります。
通詞が見た司祭たちは、日本に何を求めたのか。

そして、キチジロー。
裏切ってはコンヒサン(告解)を願う彼の姿は、「告解すれば、罪をあがなえる」というキリスト教の教えの矛盾を体言していると共に、それでも信仰は潰えないという真実も描いていて、さらにその姿には、まさに裏切り者ユダの姿が重なります。

信仰と信念が犠牲を招くしかない中、ロドリゴの叫びと悲しみ、祈りは次第に空回りを始めます。

「なぜ、神は答えてくださらないのか?
 神はなぜ、沈黙されたままなのか?」

いやぁ、これ、西洋人にはわからないだろう。。。と思いました。
とくに、キリスト教信者には、まったく理解できないだろうし、理解したくないだろうなと思いました。

私がリアルで関わった日本人信者な人々、「信者になれば、天国に行かれるから洗礼受けなさい」とか言ったり、教会に誘っても来ない人たちを「悪魔の甘言にのっている」とか言ったり、「神社やお寺にはいったら呪われる」と言ったり・・・・なにそのオカルトっぷり。。。な人が多く、あまりのことに、アメリカ人宣教師にそれを言ったら、爆笑の挙句に「それは、キリスト教とはまったく関係ないし、そもそも我々が聞いてもありえない」と真顔で言われたことがありますが。
彼らには、この映画に描かれているものなんて、さっぱりわかんねーだろうなーと、まず思いました。
逆にいえば、熱心な信者とかいっても、そういうレベルもあるわけで、信仰ってとっても曖昧でいい加減な部分があるって証明でもあると思います。

欧米のキリスト教信者にとっては、信仰は空気吸うのと同じようなもので、そういう彼らが、この映画に描かれているものを、果たして受け入れて理解しようとするかは、甚だ疑問。
恐らく、ロドリゴやフェレイラの苦悩や痛みは、まったく理解しないだろうし、むしろ石礫飛ばして終わるってだけなような気もします。
熱心な信者のアメリカ人や宣教師、神父様に知己はいますが、正直怖くて、「どう思いますか?」と聞けない。
聞けないけど、とても、すごく、知りたいです。

この映画、BGMがありません。
音楽はまったくなく、自然の音だけがずっと流れます。
そして時々、ふっと音が消える。

神は本当に沈黙していたのか。
何も言わなかったのか。
その答えは、ちゃんと映画にありました。
「神は、あなたと共にある」
それはまさに、キリスト教の信仰の根幹だと思います。

ところで。

映画の中で普通に日本語使われていますが、ハリウッド映画だから、農民も役人もわりと英語しゃべってます。
それ見て、あ!!って思ったのは、布教にやってきた宣教師たちは主にスペインやポルトガルの人たち。
なのでもしかしたら当時、彼らの話を聞くために、言葉を覚えた人は意外に多かったかもしれないと思いました。

欝展開とか言われていたのでちょっと心配しての鑑賞でしたが、欝展開ではありませんでした。
あと、泣くような映画もでなく。
ただ、あとあと地味にせまってくる映画です。

いやぁ・・・・・・スコセッシ監督、すごい映画作ったわー。。。。。(しみじみ)

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