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アニメとGAMEとマンガな日々
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そこにある幸せと、そこにある悲しみ ~この世界の片隅に



実は、原作のこうの史代さんのマンガが微妙に苦手で、1冊読んだ後は遠のいていたのもあり、この映画は見るつもりまったくありませんでした。
ところが、萌え友が見て絶賛、Twitterでも絶賛の声がたくさんあがっていて、「これは好みとか関係なく、とりあえず見てみよう」と思いまして。
ところがびっくり、近くの映画館でも都心部でもほとんどやっていなくて、いつもは行かない映画館でチケットを取りました。
するとその映画館が、満席だった。

私の隣の席の子連れの男性が、声を殺して号泣。
明るくなるまで誰も席を立たず、劇場出口で、思わず泣き出す壮年の女性。
私は、そのままどこかでひとりになって、わーわー声をあげて泣きたい気持ちのまま、帰途につきました。

すずさんは、のんびりを通り越して、ちょっとぼーっとしたところがある女の人です。
海苔を作るおうちに生まれた彼女は、兄と妹の3人兄妹。
ほのかな気持ちを寄せる同級生はいたものの、19歳になった彼女は、嫁にと乞われて、広島から呉へと、見知らぬ相手に嫁ぎます。

すずさんは自己主張もしないし、流れに身をまかせるようにして生きています。
足の悪い義母にかわり家のことをこなし、配給をもらいにいき、畑に出る。
性格がちょっときつい義姉にどやされ、その娘とふたりで空を見上げ、義父と夫の帰りを待ち、近所の人たちと語り合う。

穏やかでおっとりとした性格のすずさんは、世界を優しく見つめていて、人の中にある黒い部分や世の中にある汚い部分も、濾過したようにして見つめています。
だから、近所の人たちの喧嘩も、迷い込んだすずさんに対する娼婦たちのささやかな意地悪も、出戻ってきた義姉のきつい言葉も、すずさんは優しくちょっと笑いながら見つめている。
すずさんの生きる世界は、穏やかで、静かで、そして小さな幸せにあふれているように、見ている我々には感じられます。

しかし、その中に、戦争というものが少しづつ侵食してきます。
これは、個人が選んだ出来事ではありません。
そして、すずさん以外のすべての人たちの人生にも、大きく影響します。

突然鳴り出す空襲警報。
山の向こうから飛来する飛行機の群れ。
すさまじい爆撃音。
防空壕からでた時には、すっかりかわってしまっている街並み。
そうやって、すずさんの穏やかな日常は、厳しい現実に削りとられていきます。

この映画、イマドキにありがちな、やたらと冗長で説明ったらしい台詞や演出はいっさいありません。
だけど、一瞬の絵や描写に、言葉の端に、大きな意味を持つシーンがたくさんあります。
りんさんが生きる世界が何なのか、妹がその後どうなるのか、あの光がなんだったのか、そこで何が起きたのか、道を歩く黒い人たちがどんな状態なのか、私たちは知ってる。
だからこそ、そこに”日常”として描かれているものに存在する悲劇を、私たちは暗に感じることができます。

絵が好きだったすずさんが、絵を描く時間を失い、最後には永遠に絵を描くことができなくなります。
そしてその時、世界は一変する。
いつも笑顔だったすずさんの顔から、笑顔が消えます。

広島に原爆が投下された時、「息子が広島にいるが、大丈夫だろうか」と話す近所の人がいます。
そしてその家の軒下に、ぼろをまとった異様な黒い人が座りこんでいるのが一瞬映ります。
「死んだらしいが、どこの人間かわからない」という台詞が誰かの口から出る。
そしてしばらく後、その近所の人がすずさんに言います。
「あれは息子だった。私は自分の息子もわからなかった」

穏やかな時間や平穏な日々の中には、輝くような幸せがたくさんあって、でもそれは、一瞬にして失われて、そして永遠に戻ることはないというのを、この映画は静かに描いていました。
けれど人は、それを乗り越え、それを胸に秘めて、その先もずっと生きていくのです。
その先にはまた、新しい輝きが、新しい笑顔が、必ずどこかにある。

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