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犯人は出てこない ~スポットライト



実話に基づく物語です。

カソリックの神父が教区の子供たち(男女とも)に性的虐待をくわえていた事実と、それを隠蔽していた教会を暴いた、ボストングローブ社の記者たちの姿を描いた映画です。

いやもう、見事な映画でした。
衝撃的な事件を描きながら、あえてドラマティックな展開も演出も台詞もすべて排除。
結果として、真摯に作られた骨太で誠実な作品になっています。

事件の本質に触れるには、カソリックの世界についての知識が若干必要になります。
映画の中でも少し説明はありましたが、カソリック信者には、貧しい家庭が比較的多い(とくにアメリカ)。
神父の存在は、日本の僧侶とは違い、神にいちばん近い存在となります。
毎週教会に行く家族や子供にとって、神父の言葉は神の言葉にもなりうるし、日々を支える大事な存在でもあります。
また、神父は牧師とは違い、性的行為がすべて禁忌事項で、自慰も禁止されています。
禁止されている理由は、神に近い存在であるためには、無垢であることが必要だからです。

子供にとって、神父様に目をかけられるというのは、とてつもなく光栄なことだし、自分が特別になった気持ちになります。
神の代弁者ともいうべき神父による性的虐待は、神への純粋な信仰を踏みにじられ、信頼していた人間から裏切られ虐待されたことになり、さらに誰にもいえない、誰からも助けてもらえないという状態に子供を追い込みます。
神の代弁者である神父の性的虐待は、信者である子供にとっては、神からの虐待にもつながるわけで、結果、死を選ぶ人も少なくない。
虐待を受けた人たちの弁護を引き受けていた弁護士ガラベディアンはそれを、「彼はまだマシだ。なぜなら、生き残っているから」と、素っ気なくいっています。

貧しい家庭の子供が多いということは、親が教育を受けていない、あるいは歪んだ家庭の場合も多く、子供が性的虐待を受けていることを知りながら、それを容認したり、利用して神父に媚びるケースもある>映画にもでてくる

ひとりだけ取材された神父(元神父かもしれない)が、「(子供に)悪戯はしたよ。でも悦びは感じなかった。それが重要だ」というシーンがありますが、キリスト教では「性的行為に悦びを感じなければ罪にはならない」という考えがあるということを聞いたことがあります。

教会は、とんでもない影響力をもっており、それは幾多数多の壁となって、記者たちの前に立ちはだかります。
しかし、彼らは決してあきらめず、くじけず、負けない。
それは、取材に応じてくれた被害者の人々の悲しみ、怒り、痛みを見ているからで、誰にもいえずに苦しんでいる多くの被害者の存在を知ったからであり、これから犠牲になるかもしれない子供たちの存在があるからです。

「君たちもきっと僕らを見捨てる」と泣き出す男に、「私たちは絶対にあなたたちを見捨てない。絶対にあきらめない」という記者。
「これを公開することに、誰が責任を負うのかね?」と尋ねる判事に、「公開しないでいる責任は誰が取るんですか?」と問う記者。
母校におきた不祥事を表沙汰にしないようにと激高するかつての同級生に、「犠牲になったのは我々かもしれない。我々はただ、幸運だっただけだ」という記者。

かつて、その事実を世に知らしめようとした人々がいたことも、映画はきちんと描いています。
けれど、彼らのその行動は、そういったことに興味のない、軽視した、あるいは教会を冒涜する行為とみなす人々によって、放置され、無視され、処分されていた事実。

最後に出てくる、神父による性的虐待行為が行われていたことが発覚した都市の数に、驚きました。
すさまじい数です。
都市の数だけでもあれだけあるということは、被害にあった人の数はとんでもない。

最後に、事態を秘匿し、罪を犯した神父たちを放置していた枢機卿のその後がでてきますが、その後、バチカンはこの問題を大きく取り上げており、こういったことが未然に防げるように対策をたてていると聞いています。

ちなみに、凄まじい存在感を持つガラベディアン弁護士ですが、大好きなスタンリー・トゥッチが演じていました。
いつもながら、すごい演技でした。
彼と、今年のアカデミー助演男優賞をとったマーク・ライランスは、今後も注目です。

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