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バットマンダークナイトライジング

世界中でヒーローが絶対値で存在するのは、いわゆる“悪”と呼ばれるものが不滅で、常に我々を脅かし、裁かれることがないからだと思います。

“悪”と呼ばれるものには定義はなく、今我々が“悪”と呼んでいるものは、倫理感に基づいて後発的に、人為的に作られた“正義”と“善”に拠るもので、残念ながら絶対的な正義というものは存在しない。

我々が正義として信じているものは、支配的立場にある人間の都合と感情で簡単に覆るものだし、圧倒的多数によって瞬時に灰燼と化す脆弱なものであることは、日常で普通に証明されてしまっていて、我々が“悪人”として定義する人間にも彼らなりの“正義”があり、「世界を正しい道に導く」ために虐殺が起こってのも歴史上繰り返されている事でもそれはわかります。
そして、「殺すのが楽しい」とか「気に入らなかったんだから当たり前じゃないか」で殺人が正しい事になっている人間が存在するのも事実。

そういう中でアメコミはそも、絶対的正義と絶対的悪によって作られた物語がメインですが、映画のバットマンはその路線をあえてはずしてしまった感じがします。

絶対的“悪”だった存在を利用して正義と良心の街になったゴッサムが、正義の象徴であったはずのバットマンを“悪”に貶めて平和を保っているという所から始まる今回のバットマン。
ブルース・ウェインは満身創痍で事業も上手くたちゆかなくなっており、最愛の人を失った衝撃で失意のまま、隠遁の日々。

そこへベインが現れて、すべてを覆して「ゴッサムを市民の手に戻す」とか言って、核爆弾を盾に、ゴッサムを暴徒の手に委ねます。

暴徒の手によって制圧されたゴッサムの状況は、文革の中国、ロシア革命直後のソ連、フランス革命後のパリ、ポルポト君臨した頃のカンボジアあたりを彷彿とさせる描写が続き、正義というものは、そこにいる人と状況でいとも簡単に変わってしまうものだということがわかります。
そしてそういうふうにして作られたものの先には、破壊と破滅しかないのもわかる。

その中で、じゃあ何が正しい事なの?何を信じればいいの?というものが浮かび上がってきて、それが今回の映画の主軸があるんじゃないかと、見ていて思いました。

子供から食べ物を奪おうとした男を叩きのめしたセリーナ、希望を絶対に失ってはならないと最後まで行動したジョン、“守る”ために家族を残して戦う事を選んだピーター、閉じ込められた中でも戦う意志を失わなかった警察の人々。

つまるところ、人間を支えるのは信念で、最後に残るのもその信念なんだということが、この映画では描かれているように思いました。

映画は、“悪”の側の信念もしっかり描いています。

前作のジョーカーが衝撃的な存在として未だに語り継がれていますが、私は今回のベインの方が衝撃でした。
“悪”を絶対値として持つ人間より、結果として“悪”でありながらも、その中に“正義”や“愛”を持っている人間のほうが恐ろしいし悲しい。
実際映画見てて、そのシーンで思わず声をあげてしまいそうなくらい驚きました。

ブルース・ウェインがバットマンになってゴッサムを守る最初のきっかけになったのは、両親を亡くした子供を真に励まし支えたゴードンで、最後まであきらめなかったジョンのその信念を支えていたのは、子供の頃に見たバットマンの姿でした。

そしてそれは、自分たちを守るために命を賭けて戦うバットマンの姿をスクールバスからみる子供達に引き継がれる。

正義というのは、我々が誰かに見せるその信念であり、姿であり、そこの残されるものなんだということなんだなと、この映画を見ていて思いました。

派手でわかりやすいシーンとかほとんどなく、ひじょうに暗いイメージの映画で、子供にはまったくわからん話になっていますが。
個人的には胸熱なシーンがたくさんあり、見た後の率直な気持ちが「ちきしょうめ!!」でありました。

クリストファー・ノーラン監督には、当分ついていく。

 

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