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アニメとGAMEとマンガな日々
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殺さない戦場 ~ハクソーリッジ



メル・ギブソンが監督の映画なので、そりゃもう覚悟してみたわけですが、予想を遥かに越えた凄まじい戦争シーンでありました。
いやもうすごいです。
人が吹っ飛びまくる、撃ちぬかれ、生きたまま焼かれ、手足や内臓が飛び散る。
地べたは死体が山のようになって転がり、そこをねずみがはいまわる。
銃や火炎放射器、爆撃、手榴弾などを使ってはいますが、恐ろしいほどの接近戦で、敵味方、お互いの顔が見てとれるような近さ。
そこで行われる戦いの凄惨さは、言葉で語るのは難しい。
そこを離れた兵士たちが、言葉も表情も失ってガクガク震えているだけになるのが理解できます。

「ハクソーリッジ」は、そのような凄惨な戦いとなった沖縄戦で、武器を持たずに47人の兵士を救ったデズモント・ドスを描いた映画です。

前半、ドスのそれまでの人生が描かれます。
人間には、衝動的な殺意が生まれることがあります。
それを実体験として持つドスは、武器を持つことを自分に禁じます。
けれど、それは志願した軍隊で認められることではありません。

武器を持たない。
戦争でそれは、すなわち、軍人として、兵士としての義務や責任を果たすことがないということになります。
当然、ドスはそれをつきつけられる。
彼のそうした倫理感は、同じ隊にいる仲間たちに混乱を招きます。
武器を持たず、戦わないものを兵士、軍人といえるのか?
そういう人間が同じ隊にいることは許されるのか?
除隊を薦める上官たち、暴力と嫌がらせで除隊するように仕向ける隊のメンバーや軍曹を前に、ドスの意志はかわりません。

それを見ていた私もやはり、「戦争へ行くのに武器をもたないとはいかに?」という気持ちでした。
人を殺さない。
それは立派で素晴らしい考えだし、人間として何よりも大事なことです。
けれど、それが戦争となった時、大佐が彼に言ったように、「殺すのが戦争で、武器を持たずに大事なものが守れるのか?」ということになる。
土曜日は安息日だから休むというドスに、大佐は「だったら、日本軍にもそう頼むがいいな」と皮肉を言いますが、世の中とはまさにそうだし、個人的な考えがいかに素晴らしくても、それが通るようなことはありません。
戦争は、殺さなければ、殺される。

それが、戦争が始まってからの後半。
私は、大佐、軍曹、そして隊のみんなと同じ場所で、愕然とすることになりました。
ドスは、すさまじい戦闘の中、次々と負傷した兵士、瀕死の兵士を助けていきます。
応急処置をし、励まし、引きずり、かつぎ、背負い、砲弾砲撃とびまくる中、自分の命顧みず、駆け回る。
味方が撤退した後もひとり残り、山のように残された死体の中で、まだ息がある兵士たちを探して駆けずり回ります。
「神よ、もうひとり、私に救わせてください」と言いながら、疲弊し、自身も血まみれになった身体で駆け回る。

沖縄戦は、激戦でした。
穴倉を利用した戦い方をした日本兵をあぶりだすために、米軍が火炎放射器を使用したのも事実で、恐ろしいほどの勇猛さで応戦した日本兵に、米兵が恐れをなしたという史実もいづこかで読んだことがあります。
沖縄戦については、知識としてありましたが、戦争シーンが始まった瞬間、「近っっっ!!!」と驚愕しました。
銃つかうとか、砲撃使うとかいう距離じゃない。
しかも、そこは、砲弾でぼこぼこになった大地に、死体が山積みになって、そこを兵士たちは乗り越えていくのです。
数多ある戦争映画の多く見てきた私ですが、今回ほど、動揺したのは初めてでした。

重傷を負い、その戦場に残された兵士は、放置されたまま、死を待つしかありません。
どんなに覚悟を決めていたとしても、それはとてつもなく恐ろしいことです。
ドスは、そういう兵士たちを助けた。
戦争映画みて泣いたことなかったのですが、今回、タオル抱えて号泣しました。

デズモンド・ドスはすでに故人ですが、映画の最後に本人の映像が流れます。
彼はこの後、レイテでも多くの兵士を救い、彼が救った中には、日本兵もいたそうです。

戦闘シーンは、CGを使っていないとのこと。
両足を吹き飛ばされた兵士がでてきますが、演じた人は元軍人で、実際に戦争で両足をなくした方だそうです。

もし、ドスが、戦場にでて、あっという間に死んでいたら、この実話はなかったわけで。
ハクソーリッジでもレイテでも生き残り、多くの人を救ったという彼が、あの戦闘の中で死ぬことがなかったのは、やはり神の加護があったからなのか?と、終わった後、思いました。

兵舎でドスといっしょだった人達のほとんど、次々とハクソーリッジで死んでいきます。
あの中で、誰が終戦を迎えられたのだろうかと、そこもとても気にかかりました。

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少年の心の闇 ~怪物はささやく



原作は児童文学。
現代は、「Monster Calls」です。
それを「怪物はささやく」と訳したのは、すごい。

重病の母親とふたりで暮らす少年コナーは、学校ではいじめにあい、母親の入院のために、気の会わない祖母の家で暮らすことになります。
母親の前ではつとめて明るく、真面目なコナーは、祖母には反抗的で、学校でも真面目に授業を受けていません。
そんなコナーが夜、部屋で絵を描いていると、家から見える老木が突然、木の巨人に姿をかえ、コナーに「3つの話をする。その後、お前自身の物語を語れ」と言ってきます。

ファンタジー映画なのかと思っていたら、確かにそういう部分もありますが、ファンタジーという感じでもなく。
根暗でひねくれたコナーに、哀れと想う気持ちはあっても、共感も共鳴もすることなく、淡々と進む物語に、「こんなもんか」になってそのまま終わっていくのかと思いきや。

ラスト、恐らく満席の館内全員、「え!!!」ってなったはず。
実際、隣の席の女性は、一瞬前のめりになったし、前の席の男性は明らかに驚いた様子をしました。
そして、その瞬間、全員号泣。
隣の席の女性は、声だして泣いてました。
終わった後、拍手がでました。

母親は死にかけている、離婚してすでに別の家庭をもっている父親は、コナーを引き取る気はない、厳しい祖母はコナーに冷たい、クラスメイトはコナーを殴り、蹴り、いじめまくる。
コナーは孤独で、孤立している。
とてもかわいそうな子供なんです。
なんですが、何かが見ている我々に、そう思わせない。

そんなコナーに、木の巨人が意味深長な物語を聞かせます。
見ている我々にも、それが何を意味するのかはわかりません。
しかし、物語が進むにつれて、少しづつ、物語の視点がかわっていきます。
それでわかってくるのは、すべてはコナー自身、自らが作っている問題なのでは?ということ。

そしてそのラストで、すべてが一変します。
みんな、コナーを大事に想っていて、愛しているということ。
それが、すれ違い、いき違っていたことがわかります。
それこそが、木の巨人がコナーに求めた、コナーの物語なのでした。

ラストは、こうやって書いていて、それで思い出しても、涙がでてきちゃうってなレベルです。
いやぁ、あれは、本当にやられました。

情に訴えることもなく、むやみにかわいそうな子供っぷりを描く映画でもありません。
そして、そのラストに意味されるものが何かという説明もありません。
それは、見た我々それぞれが、自分の中で考えることなのでしょう。

あの時のあの人たちへ ~20センチュリーウーマン



1979年 アメリカのサンタバーバラで、設計会社で製図を引く仕事をしながら息子を育てているシングルマザー、15歳のその息子と、彼らの家に下宿している男女、そして息子の年上の幼馴染の関係を描いた映画です。

物語らしいあらすじもとくにないし、驚くような展開もなし。
思春期で難しい時期にはいった息子とどう接するか、考えた母親が、下宿している人達や幼馴染の女の子に、「彼の面倒をみてやって、相談にのってやって」と依頼する。
ただ、それだけの話です。

普通に生きている我々には、映画にようあるような怒涛の冒険や危機、運命の出会いや燃え上がる恋なんてのは、そうあったもんじゃありません。
日々は淡々と過ぎ、それなりに悩みや喜びがある。
そして、いろいろな人との関わりがあるわけで。
この映画は、そういうものを描いています。

大好きな幼馴染に、「あんたは私に近すぎて、セックスとか出来ない」と言われて、意味わかんねーよ!になる15歳、当時台頭していた過激なフェミニズムに賛同する下宿人の女性との会話に、「僕は学んでるんだ!」とか思っちゃったり、本当は真面目なんだけど、時には破目はずして馬鹿やっちゃうとか、「ああ、ほんと、ガキっちょ(笑)」ってなりますが、でもあれは、見てる我々の15歳の頃と重なってくる。

お母さん役のアネット・ベニングが本当に素晴らしくて、息子が「離婚してその後ずっとひとりで、寂しくないの?」とか言いつつ、大変失礼(本人はもちろんそうは思っていない)ことをしてきたシーンで、怒りと悔しさ、悲しみ、そしてもっともっと複雑な想いを、ほとんど表情すら変えずに見せた演技は、もうスタンディングオベーションでした。

ある時、ともに過ごした人達がいて、今はもう、どこにいるか、何をしているかわからなくなってしまってるけれど、ふと、その時のことを思い出すと、色鮮やかに彼らの笑顔や優しさが蘇ってきて暖かい気持ちになる。
そういうものを描いた映画でした。

そういう映画、大好き。

とってもすてきな映画でした。

クリスとレオン、夢のコラボ ~バイオハザードヴェンデッタ



公開2日目で見てきました。
1週目の特別限定配布、クリスのクリアファイルももらえました。

バイオハザードCG映画3作目。
1作目はレオンとクレア、2作目はレオンとエイダ、そして3作目はクリスとレオン、そしてレベッカ。
すっかり別の世界になってるハリウッド版に対し、日本製作のCG映画のこちらは、物語そのものはスピンオフ的な内容ですが、あくまでもゲーム世界にそった正道をいっています。

バイオハザードシリーズのCG映画は、正直、文句がないくらいの出来だと思います。
今作も、文句なし。
CGの進化もすさまじく、クリスやレオンたちの微妙な表情まで表現されていて、今後がさらに楽しみになりました。
ゲームの方は、7で既存のキャラを使わないという原点回帰を見せている傍ら、映画の方はスピンオフの世界を上手く作り、映画として面白い作品を見せてくれています。

1作目、都内上映が1館だけだったのが、2作目でいきなり上映館が増えましたが、3作目になり、また上映する映画館の数が減りました。
とはいえ、初日2日目と、どこも満席に近い状況らしく。

終わった後、高校生くらいの男子たち、ひとりバイオ4をプレイしたらしい男子が他のふたりに物語を語っていて、みんなで「レオン、かっけー」とため息ついていました。
思わずその肩を叩き、「ゲーム、しろ」といいたかった(笑)

バイオハザードシリーズ、1からずっと追い続けて今、やっぱり自分はこのゲームを愛しているのだなぁとしみじみ思いました。
映画は本当に、大変面白いのでお勧めです。

すべては種族を超えて ~メッセージ

あっちこっちで絶賛の声が聞こえてきていましたが、逆に、賛否両論あるというのも聞いていました。
実際見て、万人にはまったくお勧めしない映画と実感しましたが、だからといって、つまらないとか面白くない映画というわけではありません。
久しぶりのSF、これ以上ないってくらいのまったきSF映画です。

SF映画っていうと、「トランスフォーマー」とか「アルマゲドン」、今人気の「ガーディアンオブギャラクシー」とかを指すと考える人も大勢いると思いますが、もしSFと聞いてそっちを真っ先に思い出す人には、この映画はまったく向きません。
「ソラリス」や「デューン砂の惑星」と聞いて、「あ、そっちか」と思った人なら、たぶんこの映画を見ても不満を持つことはないと思います。

ある日突然、世界各地の12箇所に飛来した謎の飛行物体は、そのままそこに停留します。
それぞれの国が、それぞれのやり方で、彼らとコンタクトを取ろうとし、地球に降り立った理由を解明しようとします。
アメリカでは、言語学者と数学者が召還され、軍の指揮のもと、飛行物体内部で異星人たちとの意志の疎通をはかろうとします。
言語学者のルイーズは、彼らにも文字があることを発見し、その解析、解明にあたることで、彼らと”対話”をすることに成功します。

はっきりいって、これ以上ないってくらい地味な映画です。
でも、描いている内容は、とてつもなく深い意味があります。

私たち人類は、同じ地球人であっても、国が違えば、文化も慣習も言語も違ってきます。
同じ国でも、違う言語がある国はたくさんあるし、宗教や人種の違いもある。
それによって、多くの争いや差別、区別、無理解が生じています。
この映画では、それを超えて、”違う星の生命体」”を相手に、どこまでコミュニケーション取れるか、理解しあえるかということがテーマになっています。
発声機能や音に対する感覚機能の違いから、口による言葉での”会話”は、彼らとは成立しません。
主人公のバンクスは、”文字”によってコミュニケーションを可能にします。
バンクスは最初、自分たちの名前を明示し、次に、基本的な行動(歩く、食べるなど)の単語を伝えます。
そんなことがいったい何の意味になるんだ?という軍の指揮者に対し、バンクスは「何のためにそれを行うのかという事を確認するためには、基本的な行動に対する単語が必要になる」というようなことを言います。
これは、個人的にはかなり衝撃的な発想でした。
映画の中に出てきますが、中国は対話を、マージャンのパイで可能にしたことがわかります。
そこでバンクスが指摘します。
「マージャンは、対戦するためのものなので、言語のベースが”戦い”になっている」
つまり、マージャンのパイで対話すると、戦うための対話にならざるをえない・・・ということになる。

もうひとつは、コミュニケーションの部分。
得たいの知れない物体や異星人に対して、それを侵略とみなし、攻撃をしかけようとする人々がたくさんいます。
その根底には恐怖があり、我々地球人は長い歴史の中で、いきなり現れた異国の人々がいかにその国を侵略したか、よく知っているという事実があります。
そして、我々はそれが”当たり前”と考え、そうなることが必然と思い込んでいる。
それによってバンクスたちは、同じ国、同じ言葉、同じ人種で、さらに同じ目的のために仕事につく人々によって、命をおとしかけます。
それを命を賭けて救うのは、違う星、違う言語、違う文化、違う生命体でした。

この映画には、物語としての起承転結はありません。
突然やってきた彼らが地球人に伝えたかったことは、映画が終わった後、地球人に大きな課題として残され、そのためには、地球に住むすべての人々が協力しあわなければなりません。
そして地球を、やってきた異星人たちを救うのは、時間を越えた大事な記憶です。

この映画が描くのは、コミュニケーションというものには、言語、文化、習慣、国籍、人種、宗教、さらには種の違いすら関係ないということ、そして、願いや想いは時空を超え、一瞬は永遠であるということです。

久しぶりに、SFらしいSF映画を見たという充実した想いが残る映画でした。
最後の最後まで、美しい映画でした。

木村拓哉という人について 

Twitterで「無限の住人」について、熱い感想を書きまくったら、ものすごい数のRTがありまして、なんと今も続いています。
ほんと、怖いくらいの大量のRT。
そしてそれ全員、キムタクファンな人達でした。

まぁ、私も嵐のファンなのではありますが、かなりゆる~いファンだし、もともとアニメでもなんでも、ガチではまって絶賛するような感じはまったくないので、実は熱狂的支持層であるそちらの向きのファンのみなさま、ちょっと怖いと思っておりました。
なんていうか、絶賛以外は許さないよ!受け付けないよ!!叩くよ!!!ってなっちゃうんだろうなって思ってた。
キムタクについても、実はそっちの層なファンが多いと思っていたし、そういう人達は、彼にはイケメンヒーロー的役割以外は許さないし、かれを絶賛礼賛する以外は欠片も許さん!っていう状態なのだと思ってました。

いやいやいやいや、全然違ってた。

私はイケメンには興味ないし、面白くない映画は面白くないってはっきり言う。
時代劇やちゃんばらは、かなり熱の高い長年のファンといえるし、映画についても、アイドルやイケメン出てる邦画しか見てない層と比べたら、ガチな映画ファンといえると思ってます。
そんな私が、「無限の住人」さいこーに面白かった!とがんがんつぶやいていたら、キムタクファンから「ありがとう!!」って言われることになってびっくり。

んで、その人達の意見見たり、やりとりしたことでわかったこと。

むやみやたらに絶賛されてると思ってたキムタク、ファンの人から見ると、「不当に評価が低かった」んだそうです。
知らんかった。
でも、そういえば、「何を演じてもキムタクはキムタクでしかない」とか言われたっけか。
さらに、つねにネガキャンがついてまわる人なんだそうで。
これについては、つねにそうかは知らないけれど、「無限の住人」に関しては、酷評もけっこうあるし、興行成績悪いとか言われてたりするので、「え?劇場満席とかだったけど?」ってなってたりしたので、あながちファンの欲目フィルターのせいともいえないのではなかろうかということは感じました。

RTやいいね!してくれている人達、「普段木村拓哉にまったく興味のない、映画ファンや原作ファンの人達が、絶賛してくれているのがとてもうれしい」のだそうです。
(ファンの人達は、彼のことをキムタクとは言わないんだそうで。知らんかった)

さらに私と友人のTwitterのやりとり。
「キムタクには、もっと汚らしい役とかやってほしい。呑んだ暮れのおっさんとか」
「作業着で、道にころがってたりとか」
「嫁に逃げられたやもめのおっさんで、『何これ、ないわー』とか言ってほしい」
・・・とか、言いたい放題していたら、キムタクファンな方々が、「私たちもそういう木村を見たいんです!」と言い出し、びっくり。

え!! イケメンじゃなくていいの?
・・・と思ったら、
「ファンはむしろ、そういう木村を見たんですよ!」と。。。

RTしてくださったファンのみなさんのTwitterもいろいろ見せていただいたんですが、SMAP解散にはいろいろ意見もあるようだし、解散のきっかけにもなったマネージャーの存在にも賛否両論でいろいろあるんだなと思いました。
たまたまですが、私は友人で彼らとずっと仕事をしてきていた人がいていろいろ聞いていたし、彼らのファンというわけではないので、むしろ「ずっと働きとおしだったわけだし、ここで少し休んで、またあらたな気持ちで再出発するのもいいんじゃなかろうか」という気持ちで見ていました。
SMAPという枠がはずれたことで、逆にポジティブな部分もあるんじゃないかっていうふうに思っていたわけですが。

考えたらSMAPのみなさん、40代とかなんですよね。
キムタクは44歳。
彼のドラマ、「ロングバケーション」ちらっと見たことあった?程度にしか知らず、他はまったく見ていないし、映画はまったく見てません。
私の中で、ただかっこいいだけのイケメンタレントって固定観念にはまってたキムタクが、「無限の住人」と率直に意見述べてくれたファンの方たちによって、44歳の渋いおっさん俳優って別のカテゴリーに移行しました。
いやー、キムタクの魅力ってのに、ちょっと開眼したよ!

正直、それまでは、ファンの熱狂的な支持ってやつ、苦手でした。
キムタクに限らず、その人がやってるんだからさいこーに決まってる!!!なんでも絶賛!みたいなのは、アニメでもあるし、ほかでもありますが、どれもこれも苦手。
好きな俳優がでてようが、好きな監督がつくっていようが、だめなものはだめだし、好きじゃないものは好きじゃない。
そういう視点がない世界には、出来るだけ関わらないようにしていたし、ジャニーズ関係はとくにそういう層が絶大だと思ってました。
ごめんなさい、全然違ったよ。

今後は、ひとりの俳優としての木村拓哉に注目したいと思います。
無精ひげはやして作業着の酒好きなおっさんとかやってほしい。
そのおっさんがたまたま拾ったものが、実は世界を救う鍵だったりなんかして、全世界がそれを探している中、場末の飲み屋で「これさー、この間なんかひろっちゃってさー」とかみんなに見せてて、「え???????何、そんな大事なもんなの?」「や、これ、ごみのところに落ちてたんだよ?」みたいなおっさん、やってほしいです(笑)

チャンバラ活劇! ~無限の住人



原作未読。
予告編見て、これは見よう!とずっと楽しみにしていたけれど、実は期待まったくしてませんでした。

ごめんなさい!!!
すっげー面白かったですっっっ!!!


かつて、自分の過ちが発端で、妹を狂気に追いやった挙句に惨殺にまで追い込んだ万次。
死にかけていた彼に、不死の尼僧 八百比丘尼が虫を仕込み、万次を不死、不死身の身体に変えます。
それから50年。
逸刀流に父を殺され、母を連れ去られ、復讐を誓う凛は、万次に用心棒を依頼。
依頼を受けた万次は、壮絶な戦いの渦中へと身を投じます。

この映画のいちばんの見所は、キムタクこと、木村拓哉。
さっぱり興味なかったうえに、「宇宙戦艦ヤマト」映画で、激怒モードはいっていたので(キムタクに罪はないが)、実はもっとも期待していない配役でありました。
とはいっても、万次の役にはあってるよな・・・とは思ってた。

そしたら!!!

あってるどころじゃないよ!!!
超ハマリ役だった!!!
面倒くさそうで、ナナメな態度、情に厚い癖に、素直じゃないおっさん!!!
キムタク、万次そのもの!!!
さらに、着流しが滅茶苦茶かっこえー!!!
それで、決めの台詞言うところで、キムタク、目線がすっげーかっこいいんですよ!!!
上手いんですよ!!!

ちゃんばら歴史が長すぎて、普段はいろいろ突っ込んでしまうんですが、今回、それもほとんどなくて、楽しく見れました。
いやね、剣劇とか、腰はいってないとだめでしょ?
そこんとこも、すごくうまく作ってました。
実は万次も逸刀流も、「流派の型、ねぇよね?」な感じなんですが、実戦派と考えたら、それもありじゃんって、勝手に思ってた。
そのあたりも、実はさらっと、背景がわかるような台詞があります。

惜しむらくは、前半、個性豊かな敵役とのやりあいが、かなりあっさりしちゃってるところ。
ガチでもったいないと思いました。
あんまりにもあっさりやられすぎて、逸刀流十本指にはいるくらいの強さとか言われても、「うっそー(笑)」ってな感じになっちゃってるんですが、これ、ネット配信ドラマとかでがっつりやったとしたら、死闘レベルで描けるエピソード。
ほんっとに、尺の問題とは思いますが、もったいないくらい、あっさり敵がやられちゃってる。。。
そこを、「つまんない」にしてないのが、すごい。
癖のあるすごい俳優を配しているのが、ものすごい効果を出してると思いました。

あとこの映画、私の大好物な、『おっさんが少女を守る』映画なんですよね。
レオン、アジョシ、トゥルーグリット、カリオストロの城、そしてまもなく公開のローガンと、がっちりその流れの中の一作。
この種の映画の共通点は、守られる少女たちが、無力でただ守られるだけのいたいけな存在になってないところ。
彼女たちはみんな、実はおっさんにすら頼る気は全然なくて、てめぇの力だけでなんとかしようとします。
いやもう、微力どころか、「お前、何考えてんの?」なんですが、彼女たちは真剣で真摯で、本気で命かけちゃう。
強きおっさんたちはそれを見て、「くっそ、面倒くせー!でも、あの馬鹿、見捨てておけねー!」って立ち上がっちゃう。
そして、少女たちは、守ってもらうためのものじゃないんですよね。
彼女たちのその存在そのものが、おっさんたちの生きる意味、戦う意義になってく。
彼女たちは、おっさんに依存してないのです。
そこがよい。

キムタク、そのあたりも見事でした。
いやぁ・・・・・・・面倒くさそうなのが、とくにいいのなー!!! 

あのねー、もうねー、いいです、これねー、キムタクの映画。
いやいやいやいや、もうねー、個人的にはこれ、キムタクの代表作な感じ。

個人的には、切られた手首、「あ、忘れてた」ってな感じで、面倒くさそうに拾いにいくところがいちばん好きです。

三池監督は、「十三人の刺客」で、稲垣吾郎を悪役に登用しています。
吾郎ちゃん、極悪非道、人でなしな悪役を、気品をもって見事に演じていて、それがものすごく映画に厚みを与えていました。
あの映画の凄まじさ、非道さを、ただの”悪”で終わらせなかったのは、吾郎ちゃんの演技あったからこそと思っています。
今回の「無限の住人」は、万次をキムタクにしたところが成功の大きな鍵かと。
とにかく、キムタク以外の万次が、もうまったく考えられない。

ってことで、あと2回くらい、見たい気持ち。

続く人種問題 ~大統領の執事の涙



大統領執事として実在するユージーン・アレンの生涯をもとに製作された映画です。

綿花農場の奴隷だったセシルは、農場主によって父親を殺され、母親が廃人になったことをきっかけに、”ハウスニガー”(家の中で働く黒人)としての人生を歩み始めます。
飢えて盗みにはいったところを、そこで働く黒人男性に救われ、給仕として徹底的に教育を受けたセシルはその後、ホワイトハウスへスカウトされ、そこで執事の仕事につき、代々の大統領に仕える人生を歩みはじめます。

日本人な私には実感としてなかったのですが、奴隷としての経験を持つ人が、オバマ政権にも生存していたというのは驚きでした。
さらに、黒人差別がレーガン時代にも、給与や昇進にあからさまされていたという事実に、衝撃を受けました。

セシルが使えたのは、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガンで、任期は34年。
それぞれの大統領の人柄や人権問題に関わる個人的な考えなど、どこまで実話に基づいているかわかりませんが、大変興味深く描かれていました。
(ちなみに、フォードとカーターに関するシーンはまったくない)

個人的にかなり衝撃だったのは、ケネディ以外の大統領すべて、人種問題に対しては差別を容認していて、それが政策にも反映されていたという部分。
これも、どこまでが事実に基づいているかわからないので、あくまでも映画においてという感想ですが、ケネディ以外の大統領全員、あからさまな黒人差別はないにしろ、明確な区別はもっていて、しかもそれが”自然なこと”であったという部分、かなりショックでした。
それが象徴的に描かれるのは、ホワイトハウスで働く黒人スタッフの給与と待遇で、なんと、レーガン政権になるまで、彼らの給与は白人の半分以下、昇進も昇給もなかったという事実。
レーガンが大統領になったのは1981年で、彼は人種問題には積極的に取り組んだ大統領でしたが、それまで、そんなあからさまな差別がよもやホワイトハウスにあったなんて・・・と、ものすごい衝撃を受けた次第。

じゃあ、それぞれの大統領たちがセシルたち黒人スタッフに対して、差別的な態度をとっていたかといえば、そういうわけではありません。
どの大統領も、彼らの仕事を認めているし、セシルに対しても絶大な信頼をおいています。
ここが、人種差別問題のとても難しいところ。
黒人に対しては、差別区別は当然と思ってるし、当たり前すぎて、「なんでこいつら、いちいちこんなにつっかかってくるんだよ」的な意識でも、セシル個人が、自分のとった言動にどう思うか、どう感じるかというところで考えた時、そこで彼らは初めて、黒人差別問題を個人レベルで考える。
自分が下した判断、自分の考え方が、セシルに対してどういうものになるのかというふうに視点が変わった時、初めて差別というものを自分の中に見ることになるわけで。

レーガン大統領の時に退職したセシルが、老齢になって、オバマ大統領を見るくだり、それがどれほどにすごいことか、アメリカの歴史においてどれほどに革新的なことか、今までとはまったく違う感覚で見ることになりました。
いやぁ、アメリカ黒人の視点から見たら、そりゃもう世界が変わっちゃったくらい、すごいことだったんだ・・・

じゃあこの映画は黒人差別、公民権運動を描いた映画かというと、まったくそうではありませんで。

セシルの長男は、公民権運動に参加し、ブラックパンサーのメンバーになります。
その過激な活動はどんどん苛烈化し、彼らが”自分たちの正義のためなら、何やったっていい”という方向に暴走していく姿も描かれています。
長男が実家に戻った際、伴った恋人は同じブラックパンサーの活動に参加していますが、露出の高い服装で、平然とげっぷをするというとんでもないマナーで、セシルの妻はそれにはっきりと「あんな失礼な女を家に連れてくるなんて許さない」とはっきり言い、父親をハウスニグロと軽蔑した長男に、「お前はそのおかげで、生活し、権利を与えられてるんだ」と激怒してふたりを追い出します。
そして次男は兄に、「兄さんは自分たちの権利ために戦う、俺は自分たちの国を守るために戦う」と言って、ベトナムへ向かう。

なんていうか、ものすごく考えさせられるシーンでした。

歴代の大統領のプライベートな姿も、ちらっと描いていますが、これもとても興味深かったです。
亡きアラン・リックマンが演じるレーガン大統領が、人情に厚く、人間味あふれる人に描かれていて、思わず笑みが浮かんでしまうほど。

アメリカの差別問題、公民権運動については、以前、英語学校の先生だったシルベスターという黒人男性と、かなりいろいろ話し合ったことがあります。
彼は南部出身でしたが、家は裕福で、本人も有名大学を出ており、IT企業で働く普通のビジネスマン、生まれてこのかた、差別というものを具体的に経験したことはないと言っていました。
けれどそのシルベスターが、「でも、僕は確実に差別されている」といって見せてくれたのが、アメリカ人なら全員もっている出生証明書。
そこには肌の色が書き込まれるのですが、はっきりと”ニグロ”と書かれていました。
驚いた私にシルベスターは、「ね?つまり僕らは、生まれた時からすでに差別されたるんだよ」と言いました。
それを、ボストン出身のアメリカ人に話してみたところ、「ニグロというのは、差別用語でもなんでもなくて、ただ色をさす単語ですよ」と笑って言っていました。

違います。
ニグロとは、日本人をジャップ、中国人をチンクと呼ぶのと同じ、差別用語です。

キング牧師が、セシルの長男に語るシーンが印象的でした。
「ハウスニグロと呼ばれる人達は、誠実に仕事をし、人々から信頼を得ている。それは、我々とは違う形での、人種差別との戦いで、彼らはその最前線の戦士たちだ。彼ら自身は恐らく、それに無自覚だろうがね」



拍手コメントのお返事:

すべての観客が号泣していた ~LION/ライオン~25年目のただいま

アカデミー賞にもノミネートされていた作品、見てきました。
実話に基づいた映画です。

インドの小さな町で母と兄、小さな妹と3人で貧しくも幸せに暮らしていたサルーは、兄といっしょに町に稼ぎに出て、そこで乗った電車に閉じ込められ、遠いカルカッタまで運ばれて路頭に迷うことになります。
街をさまよい、浮浪者な子供となって2ヶ月、偶然出会った青年に救われ、そこからオーストラリアに養子にいき、幸せに成長します。
ところがある日、友人の家のパーティで見たインドのお菓子が、彼の遠い記憶を呼び起こします。
サルーは、自分が迷子であったこと、母や兄が自分を探しているであろうという想いに捉われ、それによって大きく人生を変えていきます。

予告見ると、大人になったサルーが自分の故郷だった場所を探す物語かと思いますが、まったくそういう映画ではありません。
前半、お兄ちゃんとサルーの仲良し兄弟が映し出され、その後は、サルーが街をさ迷い、そこで出会う人々との関わりを描いています。
この映画、この前半がすごいです。

サルーはたぶん5歳くらい。
サルーを超かわいがってる、大事にしてるおにーちゃん、そのおにーちゃんが大好きなサルーが、美しいインドの景色を背景に描かれます。
すべてサルーの視点、視線で描かれているので、視点が低い。
つまり、5歳児の背丈で見る世界が、カメラで描かれています。
そして、5歳児の視点で見る世界なので、説明がありません。
サルーが見たままの世界を、ただ我々に見せてくる。
その世界が、あまりにも過酷で、あまりにも美しく、あまりにも優しい。
カルカッタの街は、とにかく人が多いです。
その中をさ迷うサルー、押しのける人、どつく人もいます。
優しい言葉をかけ、ご飯を食べさせてくれた女性が連れてきた男。
映画にはまったく説明はありませんが、見ている我々には、それが人身売買、しかも性的幼児愛好者への売買だということがわかります。
さ迷うサルーに寝床を分けてくれたストリートチルドレン、サルーをすくってくれた青年、「オーストラリアはいい所だそうよ。あなたはとても幸運ね」と手を重ねてくれた女の子。
それらも、淡々と映像で見せるだけです。

満席だった観客席から、いっせいにすすり泣きが聞こえたのは、サルーがオーストラリアで養子にもらわれていくシーン。
養母役の二コール・キッドマンの演技が、素晴らしすぎました。
「あなたをずっと待っていたのよ」という気持ちを全身で表す演技です。
あふれんばかりの愛と母性に輝く彼女を見た瞬間、劇場内全員、完全決壊しました。
前後左右、全部泣いていた。
私も泣いた。

この部分、前半ずっと、幼いサルーの視線で世界を見せられてきたことが、絶大な効果を見せていると思います。
もう、絶賛の演出と演技でした。

後半は、大人になったサルーが、同じく養子にもらわれてきた弟との間の問題や、本当の母親を求める気持ちに悩む様子が描かれます。
少しづついろいろな事を思い出していくサルーですが、故郷の場所はわかりません。
「2、3日、電車に乗ってカルカッタについた」と言ったサルーに、「だったら、当時の列車の時速から距離を割り出せば、場所は特定できるよ」と言ったインド人の同級生。。。思わず「くっそー、インド人めぇ~」ってなった、数字に弱い私です(苦笑)
→インド人の理数系の才能はかなりすごい

映画は最後の最後まで、席をたたないように。
最後に、これまた号泣なシーンがあります。
この映画、今年いちばんかもしれません。

で、ここでは書いちゃいけないネタバレな感想を隠します。

新しいホラー映画 ~ステイク・ランド

Netflix で世界の終わりな映画ばっかり見ていたら、なんか精神やられそうになってしまいました。
そんな中、ホラー映画ファン絶賛の「ステイク・ランド」見ました。

物語は、ゾンビ型吸血鬼が人々を襲い、狂信的な新興宗教組織が人々を襲うようになった終末的世界。
家族を吸血鬼に殺された少年マーティンが、彼を救ってくれた”ミスター”と呼ばれる男と、北にある安全な町をめざして旅する物語です。

超血なまぐさいし、とにかく次々人は死ぬしで、確実にホラー映画なんですが、今までにあったホラー映画とは確実に一線違うのは、この映画、世界の終わり、ゾンビが人を襲う世界を舞台にしたロードムービーなのです。
ゾンビ吸血鬼とも戦うし、もちろんサバイバルなんだけど、それがメインテーマじゃないところが新鮮。
そして、かなりじっくり見せてくる映画でした。

”ミスター”に鍛えられ、教えを受けて成長していくマーティンと、ふたりの旅に随行する数人の人達の運命、彼らに関わる人々がいて、それぞれの生死があります。
はっきりいって、滅茶苦茶暗い。
無残な死どころの騒ぎじゃない、放心状態になりそうなシーンとかもあります。
とにかく容赦ない物語が続くのですが、映画はそれを見つめるマーティンの視点で描かれていて、いちいちそういうのを台詞にしないし、説明もしません。
結果、見ている私たちは、マーティンの気持ちでそれを見ることになります。

”ミスター”が何者かも、映画の中にはいっさい出てきません。
吸血鬼と戦い、弱き者を助け、容赦のない冷徹な部分も見せます。
彼とマーティンの関係は、父と子、師と弟子な感じで、そこも見どころ。

最近、続編が製作されたそうで、再びマーティンと”ミスター”が再会するそうです。
ホラー映画ファンは、劇場公開されない新作をDVD購入してみているらしく、そこからあがってくる情報がとてもありがたい今日この頃。
Nteflix は、ホラー映画とドキュメンタリー映画が充実していて、しばらくはそれを楽しめそうな感じがしています。



拍手コメントのお返事

腐女子、必見!! ~ムーンライト



アカデミー作品賞受賞作品です。
すっごく地味な映画だし、アカデミー賞とらなかったら、日本で上映にならなかったかも。
で、とりあえず先に言いたいのは、これ!

腐女子諸君、速攻見に行くべし!!!

問答無用で、必見!!!


腐女子遺伝子がまったくない私でも、「こ、これはっっっ!」となるレベルの、ゲイ少年の成長と純愛の映画です。

ここから若干ネタバレな感想。

父親のいないシャロンは、”リトル”と仇名されるいじめられっこ。
その彼を偶然助けたドラッグディーラーのフィンは、その後もシャロンをかわいがります。
シャロンの母親は麻薬中毒者で男に溺れ、生活は破綻状態。
孤独なシャロンにフィンは、「人に人生を決めさせるな。自分で選択し、自分で決めるんだ」と言います。

次の章は高校生のシャロン。
オカマと呼ばれ、家庭は完全に崩壊し、学校でも陰湿ないじめにあうシャロンの心のよりどころは、フィンの恋人だったテレサと同級生のケヴィン。
そのケヴィンと気持ちを通わせた直後、壮絶ないじめに追い詰められたシャロンはついに暴走してしまいます。

最後は青年期。
少年院から出所した後、シャロンは麻薬ディーラーになり、高級車を乗りまわすほどに成功していました。
麻薬中毒から脱して施設にいる母親と和解、そこへ、かつて想いを寄せていたケヴィンから連絡がはいります。
シャロンはケヴィンに会いに、彼が働くレストランへ向かいます。

腐った視線で宣伝するならば、ガチマッチョ麻薬ディーラーが受け! 
まず、そこね。
シャロンとケヴィンが気持ちを通わせるシーンとか、本当にきれいで、ふたりの想いが自然ですごくいい。
あからさまにエロいシーンはありませんが、それっぽいシーンはあります。
そのシーンが、月夜の浜辺とかで、なにそれ!乙女ロマン全開やん!!でした。
ふたりが傷や人生を乗り越えて、お互いの気持ちを確認するシーンとか、しみじみしていてとてもよい。
そして、ラストでシャロンがケヴィンに告白するシーンの台詞がね!!!
もう、すごいから。
腐ったソウルが吹っ飛ぶレベルですから。

ただこれ、ゲイ映画じゃありません。
黒人でゲイな少年の成長の物語です。

少年のシャロンがフィンに、「おかまってどういう意味?」と尋ねるシーンがあります。
その瞬間、フィンは苦い表情を浮かべて、そして言います。
「ゲイの人たちを不快にさせる言葉だ」
このシーン、すごいなと思いました。
フィンも、彼のガールフレンドのテレサも、シャロンがゲイであろうことに気がついています。
でも、まだ少年のシャロンに自覚はありません。
フィンは、「どうしたら、ゲイだってわかるの?」と尋ねるシャロンに、「お前はまだ知らなくていい、いつか自分でわかるときがくる」と言います。
フィンは、シャロンにとって赤の他人、そして、麻薬ディーラーです。
その人が、孤独な少年のシャロンにかける言葉の暖かさ、深さは、愛情以外のなにものでもない。
人間の複雑さ、深さが表現されているすごいシーンだと思いました。

すごく地味なんですが、見てよかったです。
染み渡るような、映画でした。

だがしかし。

私の隣とその隣にいた、明らかにオーバー60歳なおっさんたち、この物語をどう見たのであろうか(笑)

怪獣映画だったぞ!~キングコング髑髏島の巨神



Twitterで怪獣映画好きな人たちが大騒ぎしていたのですが、本当に怪獣映画でありました。
コングだけじゃなくて、とにかくいろいろ、どいつもこいつもでかい。
水牛とか、蜘蛛とか、蟻とか、蛸とか。
普通の鳥とかもいますが、恐竜みたいな鳥もおりまして、ふつーにふつーなのは人間だけという・・・まさに、この島では最弱なのは人間!!
宣伝に偽りなし!!!

キングコングといえば、美女を片手に高層ビルのぼっちゃうってのが定番ですが、当然、コングの地元にはそんなものはないので、従来のキングコングとは違います。
しかも今回のコング、昭和のおっさんっぽい渋さで、「俺のシマ、荒らす奴は許さねぇ!」で大暴れなさいます。

我らが貴公子 トム・ヒドルストンと、我らが叔父貴 サミュエル L ジャクソンが出演しているんですが、完全に脇です。
なんたって、人間最弱なんで仕方ない。

主役はコングと、コングが戦う怪獣です。
はっきりいってこれ、怪獣映画。
考えてみたら、今日本では怪獣映画ってないんですよね。
ほぼ、絶滅状態。
シン・ゴジラは怪獣でてくるけど、あれは怪獣映画ではないと思うし。
んで、なぜかアメリカ人、怪獣映画好きな人が多いです。
シン・ゴジラ見て、キングギドラとモスラとメカゴジラが出てくれたらサイコーだったのにね!とか、真顔で言っちゃうくらい好きな人が多い→これ、Youtubeで見れる動画にある
んで、日本では絶滅しかけている怪獣映画を、ハリウッドが継承してるんじゃないのか?と、この映画を見て思いました。

そして今回、ちょっと驚いたのが、製作に中国の映画会社がはいっていたところ。
最近のハリウッド、中国市場が大きく影響しているので、中国を舞台にしたり、登場人物に出したりしていますし、中国での上映用に特別に編集した中国版を作っているほどだそうですが、今回のコングはその部分への比重がかなり大きいかもしれません。

登場人物に日本人が出てくるんですが、零戦乗ってる兵士が日本刀持っていたり、その刀に鍔がなかったり、「あり???」ってな部分に笑いそうになりましたが、このキャラは、最後の超かっこいい台詞にかかってくるので、笑ってはいけないのであります。

そして、これからこの映画を見る人に、ぜひぜひぜひとも言っておかなければならないことがある。

テロップが流れても、席を立つな!
最後の最後まで見ろ!!


はっきりいって、テロップがすべて流れた後が、この映画の一番重要な部分といっても過言ではありません。
私がこの映画見た時、最後のこのシーンで場内から声があがりました。

ってことで、怪獣大好きな人は、コングへGOです!!!

希望の映画 ~シング



字幕で見てきました。

6歳の時にみた素晴らしい歌声のステージを見て、それにあこがれて劇場のオーナーとなったコアラのバスター・ムーンでしたが、興行がうまくいかず、借金まみれの状況に陥っていました。
それを打破すべく、バスターが企画したのが、アマチュアの歌のコンテスト。
秘書のミス・クローリーのミスで、高額賞金が出されると告知されてしまったコンテストには、ものすごい人数の応募者が現れます。

最終的に残るのは、ゴリラのジョニー、象のミーナ、豚のグンターとロジータ、ねずみのマイク、ヤマアラシのアッシュです。
興行には失敗続きのバスターですが、オーディションの時の彼のコメント、彼の目は、確かなものがあります。
オーディションの時、アッシュはあくまでも恋人のコーラス、サポートでしかありませんでしたが、バスターはその恋人の方を落とし、彼女だけを合格させています。
さらに、ロジータの才能を認めながら、「華がない」として、グンターと組ませる。
そこまで出来るのに、なんで興行失敗しまくってたんだ?と疑問になるほど。

どんな形の歌があるかもいろいろ見せてくれて、中には日本のAKBもどきなのも登場。
字幕版だと、バスターの声をやってるマシュー・マコノヒーがベタで日本語使っていて、ここはもう爆笑のシーンでした。

バスター・ムーンというキャラクターが、とにかくすごい。
私は、むやみやたらなポジティブシンキングがクソ大嫌いなのですが、この映画、常に明るく前向きですが、”むやみやたらなポジティブシンキング”がまったくありません。
素晴らしい才能を持っているのに、内気すぎて人前で歌えないミーナに、バスターがかける言葉や、父親を助けるために盗みをしようとしたジョニーが、バスターの残した言葉にそれをやめるシーンとか、「君なら出来るよ!」「絶対にうまくいくさ!」じゃないのがすごい。
バスターが合格メンバーや見ている私たちに示すのは、希望と自信です。

そのバスター自身が、希望を失った時、いきなり燦然と輝くのが、彼の友人の羊のエディ。
資産家の息子で、親がバスターに融資しているどら息子ですが、バスターが地の底までおっこちた時、エディは「金をだす」ことはしません。
「お前のために、お前といっしょにやる」ことを、迷うことなく選択します。
すっげーいい奴!!!
友達の鑑みたいな人!!!

この映画、ひじょうに緻密に作られています。
うっかりすると、なにげにスルーしてしまうシーンに、実はものすごい意味がある。

冒頭、エディとバスターが高級レストランで食事するシーン。
お金のないバスターは、サンドイッチ持参です →ありえん!って爆笑シーン
エディは払えても、自分は払えないからです。
つまり、バスターはそこの支払いを、裕福なエディに払わせる気はまったくない。
さらには、バスター自身が、お金に価値を置いて仕事をしているわけじゃないのもわかります。

ミス・クローリーは、おばあさんです。
いろいろな所でいろいろダメなことしますが、バスターは一度も彼女にイラつきません。
彼女の誠実さ、正直さ、やさしい真面目な仕事ぶりを信頼していることが、途中からわかってきます。

ダメンズに尽くして才能を棒にしていたアッシュに、「君はすごいよ」と伝えるのもバスターです。
その伝え方がすてきでダサい(笑)
アッシュがバスターの言葉に、どんどん磨かれて才能を発揮していく様は、本当に素晴らしいです。

ねずみのマイクは、この映画の中で唯一、死ぬほど嫌な奴です。
自分の才能を自慢し、他人をあしざまにこきおろす。
しかし、バスターは一度も彼を嫌うことはないし、常に誉めます。
その才能が素晴らしいからです。

そしてそのマイクが、たったひとりだけ、その歌に感動するシーンがあります。
彼はそれを隠そうともせず、それこそ目に涙を浮かべてるみたいにして、賞賛の表情でその人を見ます。
つまり彼は、真に才能のある人に対しては、きちんと評価する力ももっているということです。

バスターの他に、個人的に超注目したのは、豚のグンターでした。
予告にも出てくる、超派手な衣装でパフォーマンスする彼です。
もうね、これ、言いたい。

すっごいいい人だから!!!
一家にひとり、グンター!!ってくらい、いい人だから!!!
この映画の中で、いちばん好きだからっ!!!


ちなみに、吹替も、きちんと歌える素晴らしい配役だそうで、機会があったらこちらも見たいと思います。
字幕も、素晴らしかったので、どちらを見ても損はなし。

人生どどーん!と落ちた時、この映画を見ればいい!って思いました。
バスターが大きな声で 「 Up!!」って言ってくれます。

見た者すべてを地獄に叩き落す怪作~哭声/コクソン

ホラーマニアな方々が声をそろえて大推薦していた韓国映画「哭声/コクソン」、見てきました。
一般受けはしない映画なので、関東圏でも上映館はとても少なく、いつまで上映しているかわからないので、初日定額で観ましたが、なんとほぼ満席。

地方の山村で、連続殺人事件が起こりますが、犯人はそれぞれ被害者の家族。
現場はどれも血まみれで凄惨な状況、犯人は全員、得たいの知れない皮膚病を患っており、恐ろしいほどの凶暴になっているという共通点をもっていましたが、原因は不明のまま。
人々の間で、「事件には、山奥にひとりで住む日本人が関わっているらしい」という噂が流れ出します、
そんな中、事件を調査する警官の娘の身体にも、犯行に及んだ人々と同じ皮膚病の兆しが現れます。

子煩悩で平凡なひとりの警官が、地元に起こる得たいの知れない血なまぐさい事件に、「いったい何がおきてるんだ?」と疑問に思いつつ、妻、母、娘と平和に平凡に日々すごす生活が描かれますが、娘の身体に加害者たちと同じ皮膚病が現れ、凄まじい凶暴性を見せ出すあたりから、一気にホラー感が増します。

それまでは、人々の噂に「何言ってるんだ」という冷静な態度を示していた彼が、得たいの知れない日本人が原因らしいという噂に捉われ出し、悪霊に憑かれているという霊媒師の言葉を信じ、それは呪いなんじゃないかという言葉に、謎の日本人を原因だと確信するまでの流れは、明らかに常軌を逸していくようにも見えますが、目の前に繰り広げられる凄惨な事件と、それと同じ状態になった娘を前にした父親の彼がそうなってしまうのも無理はないという見事な演出。

「シン・ゴジラ」でも名演を見せた國村準が演じる謎の日本人、強い力を持つ霊媒師、日本語の通訳を勤める見習いの神父、事件の現場に現れる謎の女が、主人公の警官にそれぞれ違うことを語ります。
村の人々が語ることも、真実なのかどうかわからない。
警官は何を信じ、何が本当かわからなくなる中で、娘を救いたい一心で東西奔走し、その結果、彼自身が狂気の世界へと足を踏み入れることになっていく。
そして後半、怒涛の展開。
もう、呼吸するのも忘れるレベルでした。

いやぁ、もう、なんていうか、地獄を通り抜けたらまた地獄、しかもどんどん深い地獄に落ちていく・・・みたいな映画で、終わった後、そこにいた人全員放心状態って映画でした。
ひじょうに難解で、しかも観ている我々も何が真実かわからないまま(ラストはきっちりあるので、物語としてはまとまってる)放置されるし、「じゃあ、あの時のあれはなんだったの?」とか、「誰が真実を言ってたの?」とか、疑問や疑惑が残されるので、「全然意味わからなかったよ」って人もけっこういたようです。
しかし実は、それがこの映画の最大の恐ろしさでもある。

いきなりふってきた恐怖って、たいていは何がなんだかわからない。
意味なんてない。
だからこその恐怖で、何が本当で、何が真実で、何がおきてるのかなんてわからないからこそ、怖いわけで。
人によっては「先祖の呪い」っていうのを信じるだろうし、「物の怪が出た」を信じる人もいるだろうし、「神様の罰」を考える人もいるでしょう。
実際、おきてる怪異の理由や真相なんて、我々にはわからないわけです。

さらにこの映画、社会における恐怖も描いています。
小さな村で起きる怪事件に、よそものが吊るし上げられる。
「あいつが犯人だ」という噂に、何の根拠もありません。
霊媒師が「これは凶悪な物の怪の仕業だ」と言ったことを、即座に「あの日本人に違いない」と襲撃にいく人々。
それは悪霊とは違う、別の恐ろしさがあります。

この映画、キリスト教、新興宗教、土着信仰、心霊、物の怪、凶悪殺人、奇病、ゾンビと、とにかくありとあらゆるホラー要素ぶっこんできていて、しかしまったく違和感がなく、そして、今まで見たこともなかったような恐怖を生み出しています。
しかし、見終わった人たちの中には、「これ、ホラー映画だったのか?」と疑問を持つ人も多数。
すさまじい恐怖と狂気を描いていながら、観た人に残されるのは、”疑問”のほうが大きい。
そして、その”疑問”すらも、さらなり恐怖につながるオソロシ展開です。
そっちの向きで知識がある人だと、そこに秘められた意味がわかって、「!!!」ってなるシーンも多く、一瞬見せるシーンに「!!!」って箇所があったりで、緻密に作られているのがわかります。

監督は、「自分をとりまく社会を描きたかった」そうで、長い時間をかけて脚本を作り上げたそうです。
俳優陣も素晴らしい演技で、ただホラー映画として片付けてしまうにはもったいない、重厚な映画でした。

とはいえ。

すさまじく後味悪く、ホラー耐性弱い人だと、ガチで夜眠れなくなるレベルで怖い映画です。
血に弱い人とかは、絶対に見ちゃだめ。
あと、こういう言い方すると不快に思われる方もいるとは思いますが、わかりやすい映画が好きな人だと、「なにこれ?意味わかんないし」とか激怒モードはいる、「てめぇの頭で考えろ」な映画なのでまったくお勧めしません。
逆に、ホラー好きな人には、「何があっても絶対に見るべし!」と、超推薦します。
あと、カップルでいったら地獄見るだけで終わるので、やめたほうがいいです。

個人的には現時点で、今年いちばんの映画となりました。
もう一度みたいレベル。
韓国ホラー映画、すげーです。
未だに頭から離れません。

もう一度言いますが。

生半可な気持ちでみにいったら、数日、悪夢にうなされると思うレベルの映画なので、覚悟をもって見に行ってください。
それでいったら、期待以上のものが見れます。

形なんてどうだっていい ~彼らが本気で編む時は



編み物の映画キター!!!って見に行ってきました。
監督は、絶大な人気を今もって誇る「かもめ食堂」の荻上直子さん。

小学生の娘を置き去りに母が家出した後、トモは叔父のマキオのもとに身を寄せます。
叔父には、同居している恋人がいて、名前はリンコ。
元は男性だった人でした。

生田斗真がトランスジェンダーの女性リンコさんを演じた映画ですが、トランスジェンダーを描いた映画ではありません。
形なんて、どうでもいいじゃないか。
規範ってなんなんだよ、そんなの関係ないよ。
普通とか普通じゃないって何?それ、いったい何の決まり?
・・・っていう映画です。

この映画に出てくるお母さんたちは、全員シングルマザーです。
父親の存在はありません。

トモの母親は、母親としての責務を負うことはできていません。
コンビ二のおにぎりを食べさせておけばいいと本当に思っていて、小学生の娘をひとり残して、男を追いかけて家出をすることをくり返している。

トモのおばあちゃん、マキオの母親は、浮気を繰り返し、ついには女のところにいってしまった夫を恨みながら、その想いを編み物にぶつけていました。
夫がいなくなった後、残された息子の面倒を見ることに生きていたような彼女、マキオはそれを拒絶することも出来ず、のしかかる母親の重さに耐える日々を送っていたと語っています。

リンコさんの母親は、男の身体で産まれてきてしまった娘を理解し、励まします。
小学生のトモにすら、「リンコを傷つけたら、絶対に許さないから」といいます。

恐らくはゲイのカイ少年の母親は、彼女が思う”普通”と違うことを、絶対に許すことも出来ないし、認めることもできない。
だから、リンコをおかしな人間と見るし、息子が別の少年に書いたラブレターを異常な行為として、リンコさんやトモ、息子を追い詰めます。

リンコさんは、もともとは男性でした。
でも、孤独な子供だったトモを心から愛し、大事にし、抱きしめます。

トモを引き取りたいと言ったリンコさんに、トモの母親が叫びます。
「あなた、何言ってるの?あなた、女じゃないじゃない!母親になれると思ってるの?トモが生理になったら、胸がふくらんできたら、あなた、相談にのってやれるの?」
子供ひとり置き去りにして、1ヶ月以上家をあける女に、母親の資格があるかって、そこを問いたい台詞です。
しかし、マキオの言葉から、その彼女も、周囲の反対を押し切って、ひとりでトモを産んだ背景があることがわかります。
トモの母親は、トモに向かって叫びます。
「私にだってわからない。女でありたい時だってある。逃げてしまいたい時もある」

ぶっちゃけ、セックスすりゃあ子供が生まれる可能性はあるわけで、その行為だけに限定すれば、能力は資質を問われることなく、女性はおおむねみんな、母親になれます。
逆に言えば、子供を産んでいないから母親の資格がないとか、女としてだめだとかいう理由にもならない。
そもそも、資質や資格があって、妊娠、出産してるわけじゃないんだから。

リンコさんは、とっても優しい、誠実な女性です。
リンコさんによって、トモは、手作りのご飯が並ぶ食卓を知り、愛情のこもったお弁当を知り、毎朝髪をしばってくれる優しい手を知り、抱きしめてくれる暖かさを知る。
だからトモは、怖いことがあると、悲しいことがあると、どうしようもなくなると、リンコさんのところに飛んでいって、抱きしめてもらうようになる。

カイの母親が連絡して、幼児虐待を疑う役所の人が、マキオの家にやってくるシーンがあります。
こわばった顔で、担当の女性のチェックを受けたトモは、終わったやいなや、リンコさんのところにすっ飛んでいって抱きつく。
それを見た役所の女性が、うっすらと笑顔を浮かべます。
このシーン、ゲイのカップルがダウン症の子供を引き取ろうとした物語「チョコレート・ドーナツ」を思い起こさせるシーンでした。
「チョコレート・ドーナツ」では、まだゲイの差別が激しい時代、ゲイカップルが子供を養育することを容認しなかった人々に対し、その調査にあたった役人の女性が、「調査の結果、同居しているふたりの男性は、愛情をもって子供に接し、彼の養育にふさわしい環境と状況をもちえている判断します」と冷静に裁判で語っています。

リンコさんは子供が産めないかもしれないけれど、短い間だけだったかもしれないけれど、確実に、トモにとって、おかあさんだったときがあったはず。

そしてこの映画、他の部分でも、ブレイクスルーを何気なく投入しています。

リンコさんの恋人のマキオは、ゲイではありません、普通の男性です。
けれど、姉は「あんたの性的嗜好は・・・」という台詞を吐く。
リンコさんを女性と見ない社会のありよう、人の視線の中で、マキオは、「リンコさんみたいな人を好きになっちゃうと、他のことなんてどうでもよくなっちゃうんだよ」と言っています。
もとは男性だったこと、子供が産めない身体であること、女性としての身体は人工的に造形されたものであること。
そんなこと、どーだっていいじゃん!とはっきり言ってる。

リンコの母親の夫は、明らかにかなり年下です。
彼が何をして、ふたりがどうやって知り合ったかはわかりません。
彼は、トランスジェンダーの娘(もしかしたら、リンコさんとたいして年齢が変わらないかもしれない)がいる、かなり年上の女性と結婚していることだけが描かれています。
彼は、厳しい言葉を小学生に放った妻をさりげなく諭し、集まった家族のためにお鍋を作ります。
そこにもやっぱり、世間でいうところの、”普通”ってものはありません。

形や規範なんて、その人が幸せになるのに関係ないし、必要ない。
その人なりの幸せのあり方を、他人がジャッジする権利なんてない。

この映画はそういうものを、どっさりつっこんで、優しく描いていたように思います。

生田斗真が、とても丁寧にリンコさんを演じていて、心がほんわかしました。

ちなみに。
肝心の編み物ですが。

ちんこ と おっぱい しか編んでなかったよ!!!(爆)


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